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グルメな不動産投資家にもおススメ「横浜中華街」の歴史入門編 

たまには中華もいいなって感じていませんでしたか?

肉まん、小籠包、炒飯、酢豚、担々麺、北京ダック・・・もうお腹が空いてきましたね。

はい、日本最大級の中華街と言えば、600以上の店舗数を誇る横浜中華街ですよね。

今回は、横浜中華街の歩みをお届けいたします。

こちらを最後までお読みになれば、商人(あきんど)としての華僑のバイタリティや、戦後の横浜行政との連携などを理解できますので、横浜中華街での観光が一層味わい深いものになりますし、不動産投資家の方にとっても横浜という街がより一層魅力的に感じられることでしょう。

①「横浜開港」と「横浜中華街」のはじまり

横浜が港として開港したのは幕末までさかのぼること、1859年(安政6年)です。

開港するや否や、英国や米国をはじめ、世界の様々な国からたくさんの商人たちがやってきました。

こうして、横浜は開港と同時に世界の人々が行き交う国際的な商業の地となります。

横浜にやってくる外国人は欧米人だけでなく、隣国である中国からも大勢やってきました。

中国人は欧米からの商人と一緒にやってきて、買弁と呼ばれていた各国の貿易商と仲立ちをする業者として仕事をしていました。

また、通弁※現在の通訳 として働く中国人も多くいました。

先ずは幕末の日本の年表にて当時の時世を照らし合わせてみて下さい。

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どうして当時の中国人は貿易に関連する仕事をこなせたのか?

当時の中国人が国際的な貿易に関連する仕事をこなすことができたのかというと、それは当時の中国の状況が関係しています。

すでに諸外国との交流があった中国では、上海や広東、香港には外国人商館があり、そこで働いていた中国人は欧米人たちとコミュニケーションを取ることができました。

さらに、外国人のビジネス習慣も経験を通して理解していました。

タワにゃん
タワにゃん
いつの時代も中国の人は優秀だね

それで、横浜開港とともに日本へ進出することにした欧米人たちは、ビジネスの仲介役として、さらに日本人とのコミュニケーションをとる際の助けとして中国人を頼ったわけです。

中国語と日本語は大きく異なる言語であるものの、漢字を使った筆談で意思の疎通を図ることができたため、欧米人にとっても依頼しやすい人たちであったのでしょう。

中国人たちは欧米商人の日本進出をサポートするだけでなく、日本の貿易商が中国の外国商館に物品を売り込むための中継ぎをしたり、海外から到着する物品の品質検査を担うなどして、日本側の貿易ビジネスにも大きく関わりました。

このような経緯で、横浜開港とともに大勢の中国人が横浜居留地にやってきて、後の中華街のはじまりへと発展していくのです。

②山下町に「横浜中華街」が出来た理由とは?

横浜開港とともに日本にやって来た中国人たちは、外国人居留地の一角である旧横浜新田を造成した地区に集まってくるようになりました。

そこに中国人コミュニティーが形成され、商業や生活の中心地となっていきました。

そして、中華会館や劇場などを作り、中華街へと発展していったのです。

地理的には現在の中区山下町にあり、ビジネスと生活が混在したコミュニティとなっています。

商業地域は、1950年、60年代では善隣門のある大通りを指していました。

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東西南北の牌楼(はいろう)が建設されて以降は、その門に至る各通りを指すようになりました。

そして、生活地域は東西南北の牌楼に囲まれている地区を表します。

中華街には合計で10基の牌楼があり、風水の「四神相応(しじんそうおう)」という考えが大きな影響を与えています。

この「四神相応」とは、東西南北それぞれに聖獣を配置して地域を守るという思想です。

北は玄武(げんぶ)、南が朱雀(すざく)、東に青龍(せいりゅう)で西が白虎(びゃっこ)です。

中華街の各方角の入り口に、これら四神をイメージした門を設置することで外部からの邪を遮断し、内側の安全と繁栄を願うというわけです。

各四神はそれぞれ、北の玄武神は子孫の繁栄、南の朱雀神は厄を祓い福を招き、東の青龍神は日の出を迎え、西の白虎神は末永い平和と平安を願うことの象徴になっています。

③当時の横浜の華僑の職業とは?

華僑の職業として代表的なものに、3つの専門職があります。


いずれも「刃」を使用する仕事であったことから「三把刀(さんばとう)」と言われていました。

「三把刀」には、料理・裁縫・理髪が含まれていました。

この3種の中でも、特に華僑の職業として多かったが裁縫です。

外国人居留地に欧米人が多く来日した結果、洋服の需要が高まったという背景があります。

さらに、欧米文化の広がりとともに日本人の間での洋装化も進み、洋服の仕立てや裁縫産業が大きく発展しました。

様々な国から多くの人が日本に移り住むようになると、当然のことながら三把刀のみならず、いろいろな業種が発展していきました。

海産物や漢方、骨とう品や輸入雑貨商など、様々です。

特に華僑が営んでいたサービス業は、理髪店や料理店、クリーニング店など、日常生活と密接な関わりのある業種でした。

多くの中国人が日本で商売を始めたことによって、日本の産業の発展に貢献したという歴史的事実もあります。

華僑が営んでいた洋裁店やピアノ製造所、印刷サービス所といった職場で、日本人が働くということも珍しくありませんでした。

その日本人たちは、中国人たちから技術や商売方法を学ぶ機会になったというわけです。

④横浜の華僑を襲った戦禍や天災の歴史

横浜開港とともに来日し、経済や社会文化の面で発展と成長の幅を広げていった華僑ですが、一つの戦争の勃発により大きな変化を余儀なくされました。


その戦争とは、1984年に起こった日清戦争です。

この戦禍にあって中国人に対する日本人の見方や感情が悪化し、華僑にとっては居心地の悪い思いをすることになります。

例えば、商取引条件の厳格化によって商業活動が難しくなり、居留地の撤廃という問題にも直面することになりました。

さらに、約30年後の1923年には関東大震災が起こり、横浜が全域にわたり壊滅的な被害を受けました。

中華街の建物は古いレンガ造りが多くあり、被害が大きくなった要因の一つと考えられています。

この震災で被害に遭った多くの華僑が西の神戸へ移動し、そこから本国に避難するというケースもありました。

その後の第二次世界大戦中の横浜大空襲でも大きな被害が出て、中華街周辺が広い範囲で焼けてしまいました。

このように、華僑は数々の天災や戦禍を経験し、現在の華やかな中華街へと発展していったわけですね。

⑤「横浜中華街」のパワースポットとは?

1871年(明治4年)に建立された「関帝廟(かんていびょう)」。


上述の通り、中華街の大きな特徴は、各所に配置されている牌楼(はいろう)と呼ばれる迫力のある門です。

「四神相応」という風水の考え方に基づいて、東西南北の四方に聖獣を由来とする有名な門があります。

中華街には全部で10基の牌楼があり、どの門にも守護神が居て、悪いものを内に入れず、繁栄を呼び込むという意味合いがあります。

その中でも華僑が信仰する廟のひとつに、関帝廟があります。

関帝廟とは、三国志に登場する英雄の関羽を祀った門です。

その歴史には諸説あり、1860年過ぎに始まったという意見や1870年代の中ごろに建てられたという意見もあります。

現在の関帝廟は四代目。

初代の関帝廟は1923年の関東大震災で倒壊し、二代目の関帝廟は第二次世界大戦中の1945年に空襲により焼失、再建された三代目の関帝廟も原因不明の火災により1986年に見舞われ、現在の関帝廟は1990年8月14日に晴れて開廟式を迎えることが出来ました。

関羽は計算に長けていたという特徴から、商売繁盛の神様として華僑から支持されており、廟の一つとして祀られています。

春節の時期には多くの華僑が初詣のお参りにやってきました。

また、中華人民共和国の独立記念日となる10月1日の国慶節や中華民国の建国記念日である雙十節の10月10日にも祭事が開催されて、中華街はお祭りムードに盛り上がります。

⑥1953年(昭和28年)からのチャイナタウン復興計画

戦後の日本、横浜市と横浜商工会議所が中心となって、1953年に「チャイナタウン復興計画」が策定されました。

そして、その願いを込めて、1995年に中華街の大通り入り口に「善隣門」が設けられました。

その牌楼の上部には「中華街」の文字が「新仁善隣」という4文字とともに掲げられました。

以降、この街は中華街として知られるようになったのです。

それ以前は、華僑は「唐人街」、日本人は「南京街」と呼んでいました。

1964年には、近くに石川町駅ができたことから国内観光客の数が多くなりました。

その一方、海上の輸送手段がコンテナをメインに行うようになったため、外国人の船員数が減っていきました。

さらに70年代に入ると、中華街の観光地としての発展が進みます。

1972年に日中国交正常化が実現し、横浜中華街発展会協同組合が発足しました。

以降、環境整備が大きく前進して国内の旅行者が多く訪れるようになり、横浜を代表する観光地へと発展したのです。

⑦「老華僑」と「新華僑」の不仲説の真相とは?

横浜中華街発展会協同組合の会員には、「老華僑」と「新華僑」で構成されています。


横浜港開港以降、街を作り上げてきた華僑が「老華僑」と言われています。

「新華僑」とは、1980年代以降に日本へやってきて中華街で商売を始めた人たちのことです。

両者の間には考え方の違いから壁のようなものがあった時期があるものの、現在では同じ志を持って街の活性化に向けて活動していくという仲間意識が高まっています。

そのことは、近年、横浜中華街発展会協同組合の組合員数が大きく増加していることからも顕著になっています。

これは、「老華僑」が積極的に「新華僑」の経営者とのコミュニケーションの場を作り、意見の交換や今後の街の発展について話し合ってきた成果と言えるでしょう。

以前は、「老華僑」側の「新華僑」に対する印象は、中華街で商売をして稼いだ後はお金を持って国へ帰ってしまう人たち、というものだったようです。

しかしながら、現在では「新華僑」が不動産を積極的に購入して、この地に根付いていく覚悟を見せているところから、お互い力を合わせて街の課題解決や発展に協力してこうという思いで、良い関係が見られるようになっています。

⑧現在の「横浜中華街」

以前の中華街には、路上で不法なビラ配りや甘栗の販売、露店の営業が公然と行われており、安全や風紀の面でイメージダウンにつながっていた面がありました。

しかしながら、ここ10年ほどはそういった風景を見かけなくなり、以前とは変わったと感じている人たちは少なくないでしょう。

それは、2009年の7月1日に街づくり団体連合協議会が「街づくり協定」なるものを制定したからです。

この協定ルールに基づいて、横浜中華街発展会協同組合によりパトロールが開始されるようになりました。

「街づくり協定」が制定されて以降、横浜中華街はより安全な街になり、観光客にとっても安心して楽しめる環境になっています。

横浜港開港から約160年間の歴史とともに発展してきた横浜の名所である中華街は、来街者の95%が中国人ではないという特徴を持っています。

それだけ地元文化とともに共存しており、外部からの人も安心して訪れることができるほど良い環境にあるということなのでしょう。

 

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⑨「横浜中華街」おススメ肉まん7選(おまけ)

⒈「華正樓」カセイロウ

⒉「公生和」コウセイワ

⒊「江戸清」エドセイ

タワにゃん
タワにゃん
明治27年創業で1個250グラムの巨大肉まんが有名だよ

⒋「北京飯店」ペキンハンテン

⒌「同發」ドウハツ

⒍「太郎殿」タイロウデン

タワにゃん
タワにゃん
店頭の横に願いを叶える豚まんの像が鎮座しているよ
豚まんを食べながら左足を触ると願いが叶うと言われているよ

⒎「老維新」ローイシン

タワにゃん
タワにゃん
インスタ映えする目玉のパンダまんは、甘くて美味しいミルクチョコレートから野菜までいろいろあるよ

⑩まとめ


横浜中華街発展会協同組合によると、横浜中華街は、料理・雑貨・土産・クリーニング・靴など対消費者向けの総店舗数は620店。

その内、中国料理店は226店、その他飲食店が83店、食品系小売店が103店、その他の小売店が119店、サービス業89店であり、※但し2010年6月調べ 中華街の面積は、約500m四方(東西南北の牌楼で囲まれた辺り)となっております。

皆さまの日本最大級・横浜中華街でのお時間が、とても楽しい素敵な想い出となりますように。

そして横浜エリアの不動産投資が成功しますように。

この度も最後までお読みいただきまして有難うございました。

 

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